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「考える子ども」№256 

   「『総合的な学習』の導入をひかえて-子どもの『願い』から学ぶ-」

 そもそも、「授業研究」とは多かれ少なかれ、日々日常的に意識的・無意識的に行われているものである。
 「授業研究」で検討されるべきことは何かというと、粗く言ってそれは「教材研究(解釈や教師の願い)」と「子ども理解」に分けられる。この両者の関係が、いかに円滑に教師の「押し付け」にならないように、また子どもの「願い」に即するように配慮をしながは授業(学習)を進める研究を続けている。
 今日、「総合的な学習の時間」の導入をめぐって、この時間の在り方を含め、教材が先か子どもが先かという議論もなされている。
 しかし、新学習指導要領によれば、「総合的な学習」は、子どもたちによる自由な学習活動を保障する時間であると解釈できる。
 すなわち、極端に言えば、教師の「願い」は必要ではなく、子どもたちの「願い」にウエイトを置いた学習活動が展開されなければならないわけである。
 自由な学習活動を保障する中で、それぞれの子どもたちの「願い」を実現させていくための支援を教師が行うべきなのである。従来から言われ続けていた「自己教育力」だとか「問題解決能力」という「学力」を身につけさせることこそが、教師の「願い」や「ねらい」になるべきなのである。
 また、教科と「総合的な学習」は並行に位置するものではなく、互いに密接に関わり合うものである。よって、教科は教科、総合は総合と割り切って考えるのは間違いである。本来、どの教科においても「総合的」に取り組んでいく必要がある。そうでなければ、「総合的な学習」を導入する価値がないのではないのだろうか。
 これからの学習を支えるものとして、現在積み重ねてきているものの一つが「朝の会」である。「朝の会」での子どもたちのお話や考え方から、学習の基盤になるものを培っていきたいと思い続けている。
 「朝の会」が「子どもたちの願いを語り合う場」として位置づく可能性があるのならば、「総合的な学習」へと発展していく可能性もまた十分にあるのではないだろうか。

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教育セミナー兵庫’99(明石市民会館) 

 「神戸大学附属明石幼・小・中の実践から」「基調対論:総合的な学習と新たな学校づくり-附属明石の授業を参考に-」「基調提案:総合的な学習のカリキュラム開発と授業づくり」「実践交流:大阪市立西淡路小学校・広島県廿日市市立宮園小学校・香川県寒川町立天王中学校・宍粟郡山崎町立山崎西中学校」と盛りだくさんな内容でした。この中で、浅田匡先生(神戸大学)は「教科と総合は別ではない。総合の固有な目的としては、総合的なものの見方や考え方を子ども自身が形成することである。また、自己教育力の育成が、これまでの教科学習の中でなぜできなかったのかという総括が必要ではないか。そういった意味において、今こそ「教科の見直し」や「教科の意義」を問いただす必要がある」と話されていました。

第35回静岡市立安東小学校研究会(静岡市) 

 テーマは「ひとりひとりを生かす授業研究-位置づけた子を手がかりに-」です。安東小学校長が「特色ある学校づくり」について、「『特色』とは作るものではなく、振り返ってみて生まれるものである。子ども自身がその学校の特色となるべきである」というお話をされ、それが強く印象に残っています。
 安東小学校の子ども理解(学習)の中心となるものは、「カルテ」(具体的な子どもの表れに教師の解釈を加えたもの)と「座席表」(ある時点での子どもたちの捉え)と「全体のけしき」(子どもたちの思考の道筋)です。そして、座席表授業案は、座席表と本時の展開を合わせたものです。授業とは、子ども理解に始まり子ども理解に尽きるということをいつも感じさせられます。最後はいつも上田薫先生の講演です。演題は「安東小の目指す人間像-総合の神髄-」です。◎「総合」をするには、それまでの蓄積のない教師(学校)には実際にはできない。その「できない」ということを知ることがまずその一歩である。 
◎「総合」は人間の在り方、生き方そのものが原点になければならない。
◎一人一人の子どもが総合的に捉えられていなければ総合は成立しない。(カルテ・座席表など)
◎成功させずに失敗をどうさせるか、どう育てるかが大切である。 
◎「秩序」とは、でこぼこな秩序、変化のある秩序でなければならない。
◎子どもに自由を与え、子どもを信用する。うわっつらの表面だけの成功を目指さないことが子どもを逞しくする。

ひとりひとりを生かす授業―カルテと座席表 (1970年)