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第8回奈良・個を育てる教師の会(ホテルサンルート奈良) 

■発表者  
 谷岡義高先生「学び合いから作る総合的な学習」(奈良女子大附属小
 井上薫先生「総合的な学習につながるコンピュータを利用した4つの音楽活動」
                    (藤井寺市立藤井寺南小)
 近藤 久史先生「進行性筋ジストロフィー児の自己形成に関する考察」(神戸女子大学
■コメンテーター 川合春路先生(大阪樟蔭女子大
■司会者 荒木美久子先生(奈良市立伏見小)        

 谷岡先生は、「朝の会」についての取り組みを発表されました。知的な学習としての「朝の会」、感性的な学習としての「さんぽ学習」およびそれに伴う「表現活動」を位置づけ、感知合流の教育に取り組まれています。学び合いから作る総合的な学習として、さんぽを中心にした場合、「みんなでそろって、さんぽへ行く」「一年は毎週2時間、しぜんさんぽ」「二年は月に一度(土曜日)、奈良さんぽ」「学習場は、教室から飛び出すといっぱいある」「劇や詩や俳句や物語やカルタや歌で表現」「環境の中で、ゆっくりと感じる学習をめざす」などの考え方に基づいています。「朝の会」の発表テーマを見ても、「水のゆくえ」「くだものの産地調べ」「角度の研究」「漢字クイズ」「九九の研究」「ごみについて」「磁石しらべ」など、即学習に結びついていくような内容が多いと感じました。

 井上先生は、「コンピュータを活用した音楽活動」について発表されました。子どもの内面にあるものをどう表現させ、それと同時に感性をどう育てていくかということを考えながら、実践に取り組んでおられるそうです。PCを活用しながら、作詞、作曲、またそれにダンスをつけるという活動を中心とした発表でした。実践例としては、「コンピュータで作って踊ろう」(5年)、「学校生活を音楽にし、オリジナル下敷きを作ろう」(5年)、「担任の先生に感謝する会をしよう」(6年)などについてお話をされました。子どもたちの曲について、専門家から見れば問題があるかも知れないが、経験や意欲が大切なのであって、自分たちが納得することの方が大切であると言われていました。子どもたちの作品はここで聞けます。

 近藤先生は、筋ジストロフィー児(6年生)の子どもを追って、「死の教育」(デス・スタディ)の実践を発表されました。子どもの作文(お話づくり)に解釈を加え、その子どもを理解していこうとする、いわばカルテの原点をみた思いがしました。多くの先生方に「子ども理解」という点で非常に参考になる実践発表でした。

 【川合先生のコメントより】
 どの発表も大変に内容があり、よかったなあと思わされるものばかりであった。
 谷岡先生については、通常の授業はどうされているのか。さんぽに行くということは、すごくいいことで、子どもたちが自然にいろいろなものを見つけてくる。子どもたちの生活の中での経験の質というものが単調なものになってきており、デリケートな気づきというものが失われつつある中で、先生や友達とさんぽする意義は大きい。そして、その経験を発表する、言語化する、表現するという経験をもつことができることは大きい。感性を育てるのは「さんぽ」でという、そういう枠組みそのものに疑問を感じる。知的なものと感性的なものと統一的に分けて育てていこうとする時、何か教師の子どもに関わる姿勢の中で、大事なものが抜け落ちてしまうことはないだろうか。感性が感覚であり無意識なものであるとしたら、知的なものが落ちてしまうことになる。本当にいい感性、感受性というものは、知的な性格も持っているのではないか。新しい学習法として、子どもの持ち込みによって確立できそうだということであるが、教師としての知的なものと感性的なものに対する考え方が果たしてどういう意味をもつのか。「朝の会」のテーマにしても、多くのことが出されており、中には「モルディブ」のことや「防災センター」や「ダイオキシン」のことなどが出てくるが、生々しい人間の問題については、どういうふうにカバーされているのか。社会科(教科学習)の中で抑えるということなのか。「しごと・けいこ・なかよし」という奈良女子大附属小学校のこれまでの基本的な教育の構え方というものと、うまく一致するかどうかはあまりこだわらなくてもいいと思うが、「しごと」というものをどういう角度で捉えていこうということと、どういうふうに繋がっているかということを示していただけるとありがたい。
 井上先生の実践では、子どもたちが自分の気持ちを表現することができるということを存分にやらせてもらえる、それを可能にするコンピュータというものがある。学校教育の中での音楽は校門から外へは出ないといわれているが、井上実践はそれを打ち破っていくもので、子どもの気持ちを音楽によって表現しようというものであり、一緒に楽しむ、リズムにのって身体を動かすというところまで発展させていくものである。まさに「音を楽しむ」という感じである。子どもの内なるものを表現させることはいいのだけれども、それを旋律だとか調子だとか、そういったもので表現させていく詩の世界があるので、こういう気持ちをこういう音程でとか、こういうテンポでという、そういう探究はあまり見られなかったように思う。自分の気持ちを音楽表現していくという時には、こういう気持ちっていうものをそうとう子どもたちは自覚化して、意識化して、そしてそれをこの音でなきゃだめだとか、そういう検討を丁寧にしていくことが大切ではないか。どうしっとりとなのか、なぜしっとりとなのかということをつっこんでいくことが豊かになることであり、感性を育てていくことに繋がるのではないか。感謝の気持ちを表現することをはっきりと突き詰めて、内容をくっきりと言語によってつかむことによって、それにふさわしい旋律であり音色であり、感受性も育っていくのではないか。
 近藤先生の発表を伺っていて、コメントなんて申し上げようもないが、死が間近にあり、死を意識化し、そこから自分の生を見ていくことに厳しいものがあり、人間の純粋な姿が顔を出しているなあと感じさせられた。これだけ生きるということに対して純粋になれる、だから苦しみも大きい、苦しみが大きいから純粋にもなれる。そういうところに光を当てて研究をされている。いろいろな人に広めてもらいたい。人間というものは、もともとはこういうふうに自分をぎりぎりに突き詰めながら、苦しみながら自分の人生を切り開こうとして生きているものではないかということを教えられたような気がする。子どもだけの問題ではなくて、人間の問題がここで出ている。

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